私が繰り返し聴いているお気に入りの1曲、Jason Derulo の Fight For You (昨年9月に発売された Jason Derulo の2ndアルバム“Future History”の収録曲)を、まず聴いてみてください。
Jason Derulo - Fight For You
http://www.youtube.com/watch?v=pV36OEBWRvU
いかがでしたか?
Jason Derulo はアフリカ系アメリカ人特有の発音と、白人っぽい発音とを、一つの楽曲の中でフレーズごとに使い分けていたりして、その歌唱力に圧倒されます。
Jason Derulo のこの曲は、実は、Stevie Hoang のカバーです。
Iyaz & Stevie Hoang - Fight For You
http://www.youtube.com/watch?v=QtQ_xs31Qns
イギリス領ヴァージン諸島出身の Iyaz の発音と、中国系イギリス人 Stevie Hoang のアジア系特有の発音の組み合わせが、Jason Derulo 版とはまた違った印象を与えます。
ところで、Fight For You は、Toto の Africa という曲のサンプリングです。
Toto の Africa は、Karl Wolf によるカバーが有名です。
(サンプリングというのは他のミュージシャンのオリジナル曲の一部を用いて全く別な楽曲を作ること、カバーというのは他のミュージシャンのオリジナル曲をほぼそのまま歌うことです)。
Karl Wolf ft. Culture - Africa
http://www.youtube.com/watch?v=hMkPDOdOZMA
Toto の Africa には JoJo によるサンプリングもあります。
JoJo - Anything
http://www.youtube.com/watch?v=leY8eLSkvSk
上の動画は、歌詞の字幕です。以下のライブ版は Africa をサンプリングした冒頭部分は省略されていますが、JoJo のステージも「ご覧」ください。
JoJo - Anything(Live)
http://www.youtube.com/watch?v=qumYzOtGqWI
以上の楽曲、すべての元になった Toto の Africa を聴いてください。
Toto - Africa
http://www.youtube.com/watch?v=aCca5mPMp9A
私は、これらの Africa 関係(?)の楽曲をすべて1枚の CD-R に焼いて、カーステレオで繰り返し聴きながら、次の詩の一節を思い出したところで、自動車が目的地に辿り着いたりします。
雨の日のキリマンジャロ
雨の日のキリマンジャロ
雨の日のストロンボリ
雨の日のストロンボリ
(飯島耕一「雨の現実」、現代詩文庫『飯島耕一詩集』思潮社)
2012年01月22日
2011年12月01日
iOS5 アップデート時の復元エラーについて
iOS5 アップデート時の復元エラーについて
Androidユーザーの私ですが、一応、iPod touch も持っているので、サーバーの混雑を避けつつ、しばらく様子見をして、一昨日になってやっと iOS5 へのアップデートを済ませました。
ところが、いったん更新には成功したものの、復元の段階で「1611エラー」が出てしまい、途方にくれました。「1611エラー」というのは iTunes が iPod touch を認識しなくなってしまうという状態です。
Appleサイトやネット上の情報を参考にして、Windowsのファイアーウォールを無効にしてみたり、セキュリティソフトをアンインストールしてみたり、色々やってみて、最終的には
【 備忘録 】 1611エラー 【 備忘録 】|ROOM NZ3 http://ameblo.jp/noraz3/entry-11048172870.html
というブログ記事のおかげでやっとのこと、私の iPod touch は生き返り、復元も無事にすみました。結局、いろいろ調べたりする時間も含めて、都合8時間ぐらいを費やしてしまいました。
具体的には、先に iTunes をアンインストールしてから、私は Windows なので、
Program Files/CommonFiles/Apple/Mobile DeviceSupport/iTunesMobileDevice.dll
というファイルを削除し、iTunesを再ダウンロードし、インストールし直すことで、iTunes が iPod touch を認識するようになり、無事に復元が終了したということです。
それにしても、そのブログ記事を見つけることができなければ、私の iPod touch は「文鎮」と化していたのだと思います。Appleに修理に出すしかなかったのだろうと思います。
iPod touch にせよ、iPhone にせよ、Appleまたはスティーブ・ジョブズはユーザーインターフェースに革命をもたらした、と言われているし、私もそう思っていますが、OSの更新についてこれだけハードルが高いというのは、他ならぬユーザーインターフェースという点において、いかがなものかと思います。
私は WILLCOM の W-ZERO3,W-ZERO3[es](エス),advanced W-ZERO3[es](アドエス),HYBRID W-ZERO3 という歴代「Windows mobile スマートフォン」を買い続けてきた者です。iPhone(やiPod touch)は取説も読まずググらずに使える直感的なユーザーインターフェースである、「Windows mobile スマートフォン」のようにググって色々調べたり、カスタマイズしたりする必要がない、と世間では言われてきましたし、私もそう思っていた訳ですが、「Windows mobile スマートフォン」の場合、かなり色々なことを試してみても、少なくとも、今回のように途方にくれてしまうといったことはありませんでした。しかも、「1611エラー」について調べてみましたが、別に今回のメジャーアップデートに限ったことではなく、何年も前から繰り返し生じている現象なのです。Apple は、何故、放置しているのでしょう。
Apple信者ではない私も、iPhone革命、Apple によるユーザーインターフェース革命は画期的だと思います。iPhone がなければ Android もなかっただろうと思います。
でも、だからといって、今回のような「理不尽」なエラーが生じるのはいかがなものかと思います。私の場合は、iPod touch だし、基本的には Android ユーザーだから、たとえ修理に出すとしても、それほど困らなかったとは思いますが、iPhone をメインの連絡手段にしているユーザーの場合、さぞかし困っていることだろうと察します。
Apple は何故、ちゃんと対応しないのか、不思議に思います。
Androidユーザーの私ですが、一応、iPod touch も持っているので、サーバーの混雑を避けつつ、しばらく様子見をして、一昨日になってやっと iOS5 へのアップデートを済ませました。
ところが、いったん更新には成功したものの、復元の段階で「1611エラー」が出てしまい、途方にくれました。「1611エラー」というのは iTunes が iPod touch を認識しなくなってしまうという状態です。
Appleサイトやネット上の情報を参考にして、Windowsのファイアーウォールを無効にしてみたり、セキュリティソフトをアンインストールしてみたり、色々やってみて、最終的には
【 備忘録 】 1611エラー 【 備忘録 】|ROOM NZ3 http://ameblo.jp/noraz3/entry-11048172870.html
というブログ記事のおかげでやっとのこと、私の iPod touch は生き返り、復元も無事にすみました。結局、いろいろ調べたりする時間も含めて、都合8時間ぐらいを費やしてしまいました。
具体的には、先に iTunes をアンインストールしてから、私は Windows なので、
Program Files/CommonFiles/Apple/Mobile DeviceSupport/iTunesMobileDevice.dll
というファイルを削除し、iTunesを再ダウンロードし、インストールし直すことで、iTunes が iPod touch を認識するようになり、無事に復元が終了したということです。
それにしても、そのブログ記事を見つけることができなければ、私の iPod touch は「文鎮」と化していたのだと思います。Appleに修理に出すしかなかったのだろうと思います。
iPod touch にせよ、iPhone にせよ、Appleまたはスティーブ・ジョブズはユーザーインターフェースに革命をもたらした、と言われているし、私もそう思っていますが、OSの更新についてこれだけハードルが高いというのは、他ならぬユーザーインターフェースという点において、いかがなものかと思います。
私は WILLCOM の W-ZERO3,W-ZERO3[es](エス),advanced W-ZERO3[es](アドエス),HYBRID W-ZERO3 という歴代「Windows mobile スマートフォン」を買い続けてきた者です。iPhone(やiPod touch)は取説も読まずググらずに使える直感的なユーザーインターフェースである、「Windows mobile スマートフォン」のようにググって色々調べたり、カスタマイズしたりする必要がない、と世間では言われてきましたし、私もそう思っていた訳ですが、「Windows mobile スマートフォン」の場合、かなり色々なことを試してみても、少なくとも、今回のように途方にくれてしまうといったことはありませんでした。しかも、「1611エラー」について調べてみましたが、別に今回のメジャーアップデートに限ったことではなく、何年も前から繰り返し生じている現象なのです。Apple は、何故、放置しているのでしょう。
Apple信者ではない私も、iPhone革命、Apple によるユーザーインターフェース革命は画期的だと思います。iPhone がなければ Android もなかっただろうと思います。
でも、だからといって、今回のような「理不尽」なエラーが生じるのはいかがなものかと思います。私の場合は、iPod touch だし、基本的には Android ユーザーだから、たとえ修理に出すとしても、それほど困らなかったとは思いますが、iPhone をメインの連絡手段にしているユーザーの場合、さぞかし困っていることだろうと察します。
Apple は何故、ちゃんと対応しないのか、不思議に思います。
2011年11月26日
Facebookのリスクに関する考察
Facebookのリスクに関する考察
Facebookを始めてから1ヶ月半になる。社会学を研究・教育する者として、特に「情報社会学」という科目も担当する者として、「Facebookのリスク」について、現時点までに考えたことをまとめてみる。
現実の社会において出会って来た多種多様な友人・知人と、Facebook上で次々にお友達としてつながっていった場合、私達の日々の生活は、Facebookという舞台における演技となり、私達が半生で出会った友人・知人がすべて一堂に会して私達の演技を観ている、という状態になる。
ところで、Facebook上のコミュニケーションも、人間関係に他ならないから、人間関係のトラブルが全く生じないということはあり得ない。その場合、人間関係のトラブルについても、Facebookという舞台上で、過去の半生における友人・知人全員が見守る中、情報発信・公開されることになる。
Facebookの創業者マーク・ザッカーバーグは、「あなたは1人だ。2つも人格を持つというのは整合性に欠けている」と述べる。別の人格を用意して名前を隠すのは、意見を述べる人間としては臆病者だと主張する。
他方、匿名性を重視する「4chan」運営者の「ムート」ことクリストファー・プールは、「自分自身の人格において失敗した場合、そのコストは非常に高くつく」と述べる。公共の場面で実名で発言して失敗した場合、激しい批判に晒される。そのため意見を言うのに尻込みしたり、議論を呼ぶような問題提起ができなくなる、という。
(→ 参照:統計で見るネットの「匿名派」vs「実名派」 - DNA http://dailynewsagency.com/2011/05/28/transparency-vs-anonymity/ )
人間関係のトラブル等、「自分自身の人格において失敗した場合」、現実社会における友人・知人全員に周知徹底されることになり、イメージ回復のためには大きなコストを支払わなければならなくなる。
人間関係のトラブルとまでは行かなくても、自分の多種多様な人間関係が、Facebookという舞台上で情報発信・公開されることは確かである。
具体例を挙げるならば、プラス思考(プラス志向・ポジティブシンキング)の私は、これから親しくなる可能性を重視して、今までのところそれほど親しかったとは言えない知人にも、「お友達リクエスト」をお送りしたりする。ところが、承認が得られなかったり、メッセージに返信がもらえなかったりするケースも、ごく少数ながら経験した。SNSの使い方は人それぞれの自由であるから、ネット上のつながりをごく一部に限定したいという考え方の人もいらっしゃって当然だ。リクエストは断られることもあるのがむしろ自然だ。
だが、人間関係はつながっているから(6次の隔たり、さらには4.7人で世界中の人々が友達の友達となる訳であるから http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1111/23/news011.html )、自分と誰がつながっているかということと同時に、自分と誰がつながっていないかということもまた、自分の友人・知人達全員に筒抜けになるのである(Facebookの「共通の友達」という項目を見れば一目瞭然だ)。わかりやすく言えば、自分の「片想い」についても、自分の友人・知人達全員に筒抜けになってしまうのである。
私は、私にとって大切な友人とは誰か?一概には言えないという思いを強く抱いている。あまり親しくないと思っていた人が、いざ人生のピンチというとき、(精神的な意味において)心強い味方になってくれる、といった出来事を数多く経験してきた。また、社会学には「弱い絆帯の強さ」理論がある。自他共に認めるごく親しい間柄よりも、それほど親しい訳ではない弱いつながりの知人の方が、むしろ、いざというときに力になってくれる場合があるという理論である。
そういう考えもあり、私は弱いつながりの知人にもお友達リクエストを送ったり、コメントや「いいね!」を送ったりしているのだが、(今のところごく少数ながら)「片想い」の状態だということが、公開の場でさらされてしまうこともある。
可能な「リスク対策」としては、発信・公開する情報内容を限定するか、情報を発信・公開する人々を限定するか、あるいはこの二つの組み合わせか、以上の3通りしか存在しないはずである。
一方で、情報発信・公開する情報内容を限定し過ぎると、見て(読んで)いる人はつまらない。
他方で、情報発信・公開するお友達を限定し過ぎると、(世の中の大多数の人々がFacebookを使っている近未来の社会を前提にすれば)現実の人間関係をFacebook内(=重要な人々)とFacebook外(=重要ではない人々)とに「差別」している様子が、白日のもとにさらされ、公認の事柄として周知徹底されることになる。
いずれにせよ、どこかでバランスを取らねばなるまい。
一方では、Facebook上で友達の範囲を限定したり、情報を発信・公開する人々を限定したりするという、私に言わせれば「差別」をすることも、最低限は必要だ。人生は短く、すべての知人と仲良しになれるはずはないからだ。
だが、他方では、過去の半生の様々な場面で出会ってきた、自分にとって多種多様な関係性を持つ人々を、すべて(キリスト教的な意味での)「隣人」として「平等」に尊重したいとも思う。人生は長く、何らかのきっかけで、これからうんと親しくなる可能性もあるからだ。そのためには、情報発信・公開する情報内容そのものを、予め当たり障りのない範囲に限定しておく必要もあるのだと思う。
Web上のコミュニケーションは、現実社会におけるコミュニケーションの肯定的な側面、否定的な側面の両面を増幅・拡大する。だからこそ、現実社会における人間関係以上に、ネット上の人間関係には気を遣わなければならないのだと思う。私の場合は、あくまでもプラス思考(プラス志向・ポジティブシンキング)を基本としつつ、バランスを考えていきたい。
Facebookを始めてから1ヶ月半になる。社会学を研究・教育する者として、特に「情報社会学」という科目も担当する者として、「Facebookのリスク」について、現時点までに考えたことをまとめてみる。
現実の社会において出会って来た多種多様な友人・知人と、Facebook上で次々にお友達としてつながっていった場合、私達の日々の生活は、Facebookという舞台における演技となり、私達が半生で出会った友人・知人がすべて一堂に会して私達の演技を観ている、という状態になる。
ところで、Facebook上のコミュニケーションも、人間関係に他ならないから、人間関係のトラブルが全く生じないということはあり得ない。その場合、人間関係のトラブルについても、Facebookという舞台上で、過去の半生における友人・知人全員が見守る中、情報発信・公開されることになる。
Facebookの創業者マーク・ザッカーバーグは、「あなたは1人だ。2つも人格を持つというのは整合性に欠けている」と述べる。別の人格を用意して名前を隠すのは、意見を述べる人間としては臆病者だと主張する。
他方、匿名性を重視する「4chan」運営者の「ムート」ことクリストファー・プールは、「自分自身の人格において失敗した場合、そのコストは非常に高くつく」と述べる。公共の場面で実名で発言して失敗した場合、激しい批判に晒される。そのため意見を言うのに尻込みしたり、議論を呼ぶような問題提起ができなくなる、という。
(→ 参照:統計で見るネットの「匿名派」vs「実名派」 - DNA http://dailynewsagency.com/2011/05/28/transparency-vs-anonymity/ )
人間関係のトラブル等、「自分自身の人格において失敗した場合」、現実社会における友人・知人全員に周知徹底されることになり、イメージ回復のためには大きなコストを支払わなければならなくなる。
人間関係のトラブルとまでは行かなくても、自分の多種多様な人間関係が、Facebookという舞台上で情報発信・公開されることは確かである。
具体例を挙げるならば、プラス思考(プラス志向・ポジティブシンキング)の私は、これから親しくなる可能性を重視して、今までのところそれほど親しかったとは言えない知人にも、「お友達リクエスト」をお送りしたりする。ところが、承認が得られなかったり、メッセージに返信がもらえなかったりするケースも、ごく少数ながら経験した。SNSの使い方は人それぞれの自由であるから、ネット上のつながりをごく一部に限定したいという考え方の人もいらっしゃって当然だ。リクエストは断られることもあるのがむしろ自然だ。
だが、人間関係はつながっているから(6次の隔たり、さらには4.7人で世界中の人々が友達の友達となる訳であるから http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1111/23/news011.html )、自分と誰がつながっているかということと同時に、自分と誰がつながっていないかということもまた、自分の友人・知人達全員に筒抜けになるのである(Facebookの「共通の友達」という項目を見れば一目瞭然だ)。わかりやすく言えば、自分の「片想い」についても、自分の友人・知人達全員に筒抜けになってしまうのである。
私は、私にとって大切な友人とは誰か?一概には言えないという思いを強く抱いている。あまり親しくないと思っていた人が、いざ人生のピンチというとき、(精神的な意味において)心強い味方になってくれる、といった出来事を数多く経験してきた。また、社会学には「弱い絆帯の強さ」理論がある。自他共に認めるごく親しい間柄よりも、それほど親しい訳ではない弱いつながりの知人の方が、むしろ、いざというときに力になってくれる場合があるという理論である。
そういう考えもあり、私は弱いつながりの知人にもお友達リクエストを送ったり、コメントや「いいね!」を送ったりしているのだが、(今のところごく少数ながら)「片想い」の状態だということが、公開の場でさらされてしまうこともある。
可能な「リスク対策」としては、発信・公開する情報内容を限定するか、情報を発信・公開する人々を限定するか、あるいはこの二つの組み合わせか、以上の3通りしか存在しないはずである。
一方で、情報発信・公開する情報内容を限定し過ぎると、見て(読んで)いる人はつまらない。
他方で、情報発信・公開するお友達を限定し過ぎると、(世の中の大多数の人々がFacebookを使っている近未来の社会を前提にすれば)現実の人間関係をFacebook内(=重要な人々)とFacebook外(=重要ではない人々)とに「差別」している様子が、白日のもとにさらされ、公認の事柄として周知徹底されることになる。
いずれにせよ、どこかでバランスを取らねばなるまい。
一方では、Facebook上で友達の範囲を限定したり、情報を発信・公開する人々を限定したりするという、私に言わせれば「差別」をすることも、最低限は必要だ。人生は短く、すべての知人と仲良しになれるはずはないからだ。
だが、他方では、過去の半生の様々な場面で出会ってきた、自分にとって多種多様な関係性を持つ人々を、すべて(キリスト教的な意味での)「隣人」として「平等」に尊重したいとも思う。人生は長く、何らかのきっかけで、これからうんと親しくなる可能性もあるからだ。そのためには、情報発信・公開する情報内容そのものを、予め当たり障りのない範囲に限定しておく必要もあるのだと思う。
Web上のコミュニケーションは、現実社会におけるコミュニケーションの肯定的な側面、否定的な側面の両面を増幅・拡大する。だからこそ、現実社会における人間関係以上に、ネット上の人間関係には気を遣わなければならないのだと思う。私の場合は、あくまでもプラス思考(プラス志向・ポジティブシンキング)を基本としつつ、バランスを考えていきたい。
2011年10月08日
みやざき高齢社会研究会 平成23年度第2回研究会のご案内
みやざき高齢社会研究会 平成23年度第2回研究会のご案内
期日:平成23年10月25日(火)19:30〜20:30
会場:宮崎市中央公民館中研修室
報告者:ベンツ・ラワーセン氏
題目:デンマークの現場から、デンマークの福祉制度を学ぶ
報告者の紹介:
ベンツ・ラワーセン氏は、デンマークの知的障がい者通所施設オトゴップガーデン施設長。1979年ペタゴー(デンマークにおける「社会福祉士」資格)取得後、30年以上に渡り、知的障がい者の教育や生活支援に従事、1985年から現職。1987年より日欧文化交流学院の運営に携わり、1994年より千葉忠夫氏と共に日本でも講演多数。
現在ペタゴー取得試験の試験官として、施設運営のコンサルタントとして、また長期休暇を利用して、国内外で精力的に活動中。
※講演はデンマーク語で行われますが、日本語同時通訳がつきます。
※会員以外の方も当日参加できます(無料)。お誘い合わせの上、ご出席ください。
※みやざき高齢社会研究会は、宮崎大学檜山教員研究室に事務局を置き、県内医療福祉関係者(病院長、施設長、看護職、介護職等)、行政職員、団体職員、ジャーナリスト、大学教員等で構成されるアットホームな研究会です。
期日:平成23年10月25日(火)19:30〜20:30
会場:宮崎市中央公民館中研修室
報告者:ベンツ・ラワーセン氏
題目:デンマークの現場から、デンマークの福祉制度を学ぶ
報告者の紹介:
ベンツ・ラワーセン氏は、デンマークの知的障がい者通所施設オトゴップガーデン施設長。1979年ペタゴー(デンマークにおける「社会福祉士」資格)取得後、30年以上に渡り、知的障がい者の教育や生活支援に従事、1985年から現職。1987年より日欧文化交流学院の運営に携わり、1994年より千葉忠夫氏と共に日本でも講演多数。
現在ペタゴー取得試験の試験官として、施設運営のコンサルタントとして、また長期休暇を利用して、国内外で精力的に活動中。
※講演はデンマーク語で行われますが、日本語同時通訳がつきます。
※会員以外の方も当日参加できます(無料)。お誘い合わせの上、ご出席ください。
※みやざき高齢社会研究会は、宮崎大学檜山教員研究室に事務局を置き、県内医療福祉関係者(病院長、施設長、看護職、介護職等)、行政職員、団体職員、ジャーナリスト、大学教員等で構成されるアットホームな研究会です。
2011年03月25日
卒業生へ贈る言葉――社会システム課程委員長挨拶――
卒業生へ贈る言葉――社会システム課程委員長挨拶――
※以下は、2011年3月24日、宮崎大学教育文化学部社会システム課程謝恩会における私のスピーチの原稿です。
日本は今、未曾有の大災害に直面しています。私は関東地方出身ですから、知人の中には未だ安否がわからない人もいます。
テレビで東日本大震災の被災者へのインタビューを見ていたとき、何人もの被災者が「前向きに生きる」「前向きに頑張る」とおっしゃっていて、「前向き」という言葉が心に残りました。そこで少し考えてみました。
人間にとって生きる支えになるのは、まず、家族や昔からの友人、長年携わって来た仕事などです。ところが、地震による津波で、家族も友人も仕事も一挙にすべて失ってしまった人々がいる。その彼らは、「前向き」という言葉を遣って自分で自分を励ますように「未来への希望」を語る。
つまり、人間は、今までの自分にとって生きる支えになっていた「過去」をすべて失ってもなお、「未来への希望」を支えに「前向き」に生きていくことができる。家族や昔からの友人、長年携わって来た仕事などは、その人にとっての「過去」です。「過去」をすべて失ってもなお、人は、「未来への希望」を支えに生きていくことができるのです。
このことは、少し考えてみれば、当たり前のことなのかも知れません。人間は、過去と未来の間に立つ存在です。現在とは過去と未来の間です。ですから、人間にとって過去も未来もどちらも大事で、その人にとっての過去が生きる支えになることもあれば、未来への希望が生きる支えになることもある。
皆さんは、今日、宮崎大学教育文化学部社会システム課程を卒業し、新しい世界に飛び込んで行きます。新しい世界には未来への希望があります。
社会システム課程の同窓生、友人達は、皆さんにとっての過去です。皆さんは社会システム課程という過去を大切にして生きていくべきです。社会システム課程の同窓生や友人達は皆さんにとって生きる支えになります。
でも、他方では、皆さんはこれから新しい世界に飛び込んで、未来への希望を支えに生きて行くことができます。未来への希望もまた、生きる支えになり得るのです。
※以下は、2011年3月24日、宮崎大学教育文化学部社会システム課程謝恩会における私のスピーチの原稿です。
日本は今、未曾有の大災害に直面しています。私は関東地方出身ですから、知人の中には未だ安否がわからない人もいます。
テレビで東日本大震災の被災者へのインタビューを見ていたとき、何人もの被災者が「前向きに生きる」「前向きに頑張る」とおっしゃっていて、「前向き」という言葉が心に残りました。そこで少し考えてみました。
人間にとって生きる支えになるのは、まず、家族や昔からの友人、長年携わって来た仕事などです。ところが、地震による津波で、家族も友人も仕事も一挙にすべて失ってしまった人々がいる。その彼らは、「前向き」という言葉を遣って自分で自分を励ますように「未来への希望」を語る。
つまり、人間は、今までの自分にとって生きる支えになっていた「過去」をすべて失ってもなお、「未来への希望」を支えに「前向き」に生きていくことができる。家族や昔からの友人、長年携わって来た仕事などは、その人にとっての「過去」です。「過去」をすべて失ってもなお、人は、「未来への希望」を支えに生きていくことができるのです。
このことは、少し考えてみれば、当たり前のことなのかも知れません。人間は、過去と未来の間に立つ存在です。現在とは過去と未来の間です。ですから、人間にとって過去も未来もどちらも大事で、その人にとっての過去が生きる支えになることもあれば、未来への希望が生きる支えになることもある。
皆さんは、今日、宮崎大学教育文化学部社会システム課程を卒業し、新しい世界に飛び込んで行きます。新しい世界には未来への希望があります。
社会システム課程の同窓生、友人達は、皆さんにとっての過去です。皆さんは社会システム課程という過去を大切にして生きていくべきです。社会システム課程の同窓生や友人達は皆さんにとって生きる支えになります。
でも、他方では、皆さんはこれから新しい世界に飛び込んで、未来への希望を支えに生きて行くことができます。未来への希望もまた、生きる支えになり得るのです。

